有心・無心の意味【一歩先の美意識】(有心・無心とは?)

有心・無心の意味【一歩先の美意識】(有心・無心とは?) 美意識

 

「侘び寂び(わびさび)」「幽玄」「有心・無心」「もののあはれ」「無常」は、日本人にとって古くからある美意識で、心のゆとり・余裕が持ちにくい現代社会に不可欠な意識です。

今回のテーマについては、次のポイントでまとめました。

  1. 「侘び(わび)」とは?
  2. 「寂び(さび)」とは?
  3. 「幽玄」とは?
  4. 「有心・無心」とは?
  5. 「もののあはれ」とは?
  6. 「無常」とは?

簡単に理解できますので、ぜひ、読んでみて、一歩先の美意識を堪能ください。

  • 「侘び(わび)」は、脱俗・不足・粗相の美。
  • 「寂び(さび)」は、閑寂・枯淡の美。
  • 「幽玄」は、奥深くにある本質的な美。
  • 「有心」は、奥深くにある本質を感じる心の美。
  • 「無心」は、心を超越した、不動の境地の美。
  • 「もののあはれ」は、移り変わる無常の美。
  • 「無常」は、儚さを受け入れた、その先にある美。

 

 本記事では、美意識のうち、「有心・無心」について、有心・無心とは何か?その意味を紹介します。

 

「有心」とは?その意味は?

有心・無心の意味【一歩先の美意識】(有心・無心とは?)写真

「有心」という漢字

有心・無心の意味【一歩先の美意識】(有心・無心とは?)字

「有心」は、有る心と書きます。

物事を深く理解する心を持っているという意味であり、一般的に「分別があり、思慮深いこと」と訳されます。

この逆は、「無心」で、「心のいたらないこと。気のきかないこと」を意味します。

しかし、これらの意味は表面的なものであり、それこそ、思慮深く有心を持って、言葉に向き合えば、もっと深い意味を見出すことができます。

 

「有心」「無心」の美意識

「幽玄」は、平安時代の歌人である藤原俊成が、美的概念として取り上げたものであります。

そして、「有心」は、その子、藤原定家が「幽玄」以上に、重要視した美意識であり、美的概念を深化・発展させたと言われています。

 

では、「有心」という美意識について、和歌の世界の事例を紹介します。

『藤原定家』平安時代の歌人

有心・無心の意味(有心・無心とは?)藤原定家

すべての歌のカタチには、「心」が存在しなくてはならず、それゆえに,最も重要である歌のカタチを有心体と名付けた。

そして、心と詞(コトバ)を兼ね備えた歌が良いとしながらも、詞(コトバ)に振り回されない心を重視し、言葉よりも心の優位性を説いた

また、歌の本質は、「をかし」ではなく「奥深い」とした。

 

そして、大阪大学教授である国文学者の小島吉男は、「有心」を次のように表しています。

「有心」というのは、風雅心を歌の構想や、言葉のつづけ柄の上に、深く込めらせた歌の風姿をいうのである。

「艶」を官能的な美であるとすると、「有心」は情緒的な美である。

 

以上をまとめると
「有心」という美意識は、「ものごとに、奥深く上品な味わいを込める心のあり方」を表し、「姿・カタチ」を意味する「体」をつけた「有心体」は、「心のこもった歌の姿・カタチ」を表します。

 

初めに解説した「幽玄」と、今回の「有心」には、共通する部分があり、その美意識を言葉で表すと、似たような意味になってしまいます。

ただ、「幽玄」は「本質的な美」であり、「有心」は「心のあり方」であると考えられます。

 

最後に、「無心」について解説します。

室町時代の能役者である世阿弥は、「有心」を越えた境地に「無心」があると説いています。

『世阿弥』(室町時代の能役者)

「無心の位にて、我心 をわれにも隠す安心にて、せぬ隙の 前後をつなぐべし」

訳:無心の境地に達し、自分の心を自分にすら隠し、意識しないまま(心が休んでいるまま)、能芸に徹するべき。

これは、心が浄化され邪念がなくなる境地に達し、心すら無くなる「無心」でなければならないことを表している。

「無心」は、「気のきかないこと」という表面的な意味ではなく、「心を超越した、不動の境地」を表す言葉でもあります。

 

この記事をご覧になったアナタが、一歩先の美意識の世界を少しでも、感じていただけたら、筆者としても幸いです。

今度は、ぜひ、世の中にあふれる「有心の美」を肌で感じてみてください。

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